このブログは2017年に始まった。来年には開設から10年目に入るというのに、記事数はわずか十数本――だと思っていた。確認したところ25本あった。思ったより書いていたらしい。
とはいえ、9年で25本である。胸を張れる数字ではない。通常の神経をしていたら、サーバー代がもったいなくてとっくに消えていてもおかしくない。にもかかわらず今日まで存続しているのは、長田の桃を求める読者諸兄と、アサギマダラの飛来を気にかける読者諸兄によって辛うじて支えられているからだと言ってよい。
もはや、やる気があるのかないのか筆者である私さえもよくわからない状況である。ということで今回は梅雨時の暑いんだかなんだかよくわからないこの気だるい気候の中で、同じくなんだかよくわからない記事を書こうと思う。再開宣言とはっきり書き切ってしまうとまた気力が虚空に旅立ってしまうので、敢えてなんだかわからないものを投下するとだけ宣言させていただく。
長文を書く癖の功罪
新規記事を全く書かず、またSNSの類も全く続かない私であるが、文章をしたためるという行為については昔からこの上なく好きなのである。嘘つけ!と思うかもしれないが、私の頭の中では常時何らかの文章がAI生成のごとく、突拍子もない速度でまた、とりとめのない内容のものが常に生成されている。
特に風呂に入っている間が最も活発で次々にアイディアが浮かんでくるのだが、頭を洗ってシャワーで流す頃には綺麗さっぱり忘れている。私の頭には穴でも空いていて、そこからお湯と一緒に流れ出ているのかもしれない。
すまん話が逸れた。見出しと全く関係のない話を延々としてしまった。
こういう悪い癖があるのだ。すでにお気づきの読者もいることだろうが、このような感じでまるで会話のごとくスラスラと文章を生成してしまうのだ。まさに悪癖である。そしてひたすらと本題からズレ続ける。問題は、このように乗ってくると長文を易易と書くことができるのだが、乗ってこないとこのような長文を書くために気合が必要で、仮にエンジンがかかってきたとしてもすぐにエンストしてしまうところなのだ。
なぜかといえば、私自身にもよくわからない。ただ、今こうして書いている瞬間は不思議なほど指が動いている。問題は、その状態に入るまでがやたら長いことなのだ。
おそらく私は「文章が書けない」のではない。「長い文章を書かなければならない」と思い込みすぎていたのである。
デアル調への回帰
私のブログ内は、これまで原則としてデスマス調で統一してきた。理由は単純である。平易な文章を書くにあたって、その方が都合がよかったからだ。
しかし本音を言えば、これもなかなかに苦痛であった。記事を書き始めるたびに「もっとわかりやすく」「もっと平易に」と自分へ言い聞かせていたのだが、その度にどこか借り物の服を着ているような居心地の悪さを感じていたのである。
思えば、その原因は中高生時代にまで遡る。当時の私は文学や哲学書を読み漁っていた。物語や思想そのものに惹かれていたのはもちろんだが、それらの文章が持つ独特のリズムや余韻にも強く魅了されていた。少し堅く、回りくどく、ときに含みを持たせた言い回し。そうした文章に長く触れてきたことが、現在の私の文章の土壌を形作っているのである。
これはもはや好みというより、一種のアイデンティティと言ってもよいだろう。
もちろん、デスマス調そのものを否定するつもりはない。万人にとって読みやすく、情報を伝えるには優れた文体である。実際、書く内容によっては今でも適していると思う。
例えばレシピや商品紹介のような記事であれば、これまで通りデスマス調を使うつもりである。読者に必要な情報をわかりやすく届けることが第一だからだ。
ただ、自分の考えや心情を綴る記事まで無理にデスマス調へ合わせることは、もうやめようと思う。
音楽の感想や随筆のような記事を書くとき、私が本当に書きたいのは情報ではなく感覚である。曲を聴いたときの空気や情景、言葉になりきらない感情の揺らぎを書き残したいのである。そうした文章を書くのであれば、やはり私にとって自然なのはデアル調なのだ。
というわけで、ここに宣言しておく。
今後、このブログでは記事の内容に応じて文体を使い分ける。情報を伝える記事はデスマス調で、感性や思索を綴る記事はデアル調で。
少なくとも、自分が書いていて息苦しくなるようなルールだけは捨てることにした。




